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利休の茶道を継いだのは、先妻妙寿との間に生まれた長男道安と、後妻宗恩の連れ子少庵の二人です。

利休切腹後、秀吉は両名とも追放しますが三年後には許し、茶の宗匠に戻してやります。生前利休は実子の道安を偏愛し、家督と茶系を継がせることに決めていました。自害の直前、千家の財産処分状を作り、道安も花押(かおう)(署名の下に筆で書く印)を押しており、承知したことがわかります。

少庵は前回申したように謙虚な人格者です。才能はともかく自分は血のつながらぬ義理の息子だ、当然道安さまが継ぐべきだと考え、秀吉が没収していた利休の茶道具を少庵に返却した時、全部道安に差出そうとします。

ところが、偏屈な一匹狼タイプの道安は白い眼で睨んで受取らず、さっさと独りで堺の利休屋敷に戻りました。しかし、堺の会合衆(えごうしゅう)(堺の市政を担当した豪商たち)と全く気が合わず、門人たちも遠去かり、放浪の旅に出ては無一文になって堺に戻るというやけくそな生活を繰り返し、晩年は泉南道安と称して世を捨て、うつ病のような有様で慶長12年(1607)死亡します。こうして堺の千家は廃絶しました。同市の宿院町西1丁目に「利休屋敷跡」があり、古井戸のみが残っていますね。あそこがそのゆかりです。

一方、利休は4人の妻の中で最も愛したという後妻宗恩の連れ子少庵も気にかかっていたのでしょう。天正8年(1580)頃、京の大徳寺前に屋敷を与え、千家流の茶道教授にあたらせています。彼は何といっても人柄がいい。たちまち貴族や公卿(くげ)たちまで弟子入りし、茶人として京の第一人者になります。

秀吉に許され流されていた会津若松から京に戻ってきた少庵は、大勢のファンたちの後押しで、本法寺(京都市上京区)前に茶室を設け、熱心に千家流茶道の普及に取り組みました。

彼の長男があの有名な千宗旦(そうたん)です。宗旦は父少庵をはるかにしのぐ茶道の天才でした。ひょっとすると祖父利休以上の傑物だったかも知れません。幼い頃からその才能にびっくりしていた父少庵は、千家を継ぐ道安と対立したら大変だと、大徳寺に入れ僧侶にしようとしたくらいです。

慶長5年(1600)少庵は、お前こそ千家の茶道を復活させる男だといい、家督を譲ってさっさと仏門に入り、二度と世に出ることはありませんでした。

祖父利休が切腹した時、宗旦はまだ14歳の多感な少年です。大変なショックで、二度と悲劇を繰り返してはならない、そのためには茶道を政治に巻き込んではならぬと、堅く心に誓います。世は移り、徳川幕府は宗旦を徳川家の茶頭(茶道の宗匠)に招きましたが、病気を理由にひたすら拒み続けています。大名たちがどんなに良い条件で誘っても、首を横に振り続けました。ために誰からも尊敬される茶人になっても、生活は清貧といえば聞こえはいいが困窮しており、世は彼に「乞食(こつじき)宗旦」とあだ名をつけています。

江戸の文化人のナンバーワンといわれる本阿弥光悦は、「わが友宗旦により茶は成る」と語っています。茶道は宗旦のわび茶によって完成したとの意味です。少年時代8年間も大徳寺で禅の修行をした体験を、祖父利休、父少庵を経て受け継いだ「茶禅一味」「和敬清寂」の理念を生かした千家流茶道を実現したのは、この宗旦です。

武野紹鴎(たけのじょうおう)(利休の師)が種をまき、千利休が花を咲かせ、千宗旦が実を結んだことは、宗旦が工夫した一畳半の極小茶室によく表れています。

宗旦には4人の男の子がいます。長男宗拙は父と意見が合わず飛び出し、次男宗守は京の武者小路に茶室「官休庵」を設け、武者小路千家となります。三男宗左は父の信頼厚く「不審庵」を与えられ不審庵四世表千家を、四男宗室も父の「今日庵」を譲り受け今日庵一世裏千家を名乗りました。

こうして利休の茶道は、「官休庵武者小路家」「不審庵表千家」「今日庵裏千家」の三家に分かれ現在に至っています。

利休は歌人としても優れていますが、狂歌はもっと上手です。彼の素顔は案外ひょうきんで、粋な人物だったのかも知れません。