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なにわ人物誌 茶聖・千利休1 千利休 悲劇的な生涯の背景とは…

はじめにおことわりしておきますが、私は茶道の心得はありません。

ですから、茶聖としてよりも、その落日に似た悲劇的な生涯を書くつもりです。もう一つ、彼が利休と名乗ったのは64歳からで、それまでの茶名は宗易(そうえき)です。しかし、本稿は利休で統一しますからご了解ください。

とにかく、利休についての研究書は山ほどあります。私の利休伝記がお嫌いの方は、どうぞそちらをお読みください。

利休は大永2年(1522)堺の今市に生まれました。名は与四郎、父は千代兵衛。家業は魚屋ですが、貸金庫業や運輸業も営み裕福な商家でした。

先祖については様々な説がありますが、慶安6年(1653)幕府は徳川家康の正確な年譜を作るため、表千家4代家元千宗在に利休の履歴書を提出させます。その中に、利休の祖父は8代将軍足利義政のお伽衆(とぎしゅう)〔大名の世間話の相手をつとめる文人〕の一人で、田中千阿弥(せんあみ)だと記されています。

千阿弥は朝鮮から日本に移住した教養豊かな人物だとも言われています。そう言えば後に開いた利休の茶室の構造は、朝鮮の古い民家に酷似しています。茶道具も高麗(朝鮮王朝の一つ)ものが多いですね。

祖父千阿弥がいつ死んだのかは分かりません。利休の「緑苔墨跡」という文に、「祖父(法名道悦)の7回忌に墓参したが、当時は貧しかったので墓は苔が生え、満足な法事もしてやれなかった。」との内容があります。

父与兵衛は抜群の商才があり、独力で大店(おおだな)の主となりました。有名な堺の納屋(海岸に設けた交易商品の倉庫)10人衆の一人です。大金持ちです。

本名は田中与兵衛ですが、父の千阿弥の名を残そうと千与兵衛と改姓しています。利休は親孝行で18歳の時父と死別しますが、父の法事にはとりわけ熱心で、あの命とりになった大徳寺の山門、あれは父の50回忌の供養に建造したものです。

利休の母については分かりません。 法名は月岑妙珍と言いますが、本名を含めてどんな女性だったかについての資料はありません。

利休には3人の妻がいます。一人は天文11年(1542)頃結婚した女性で、彼女の本名も不明ですが、天正5年(1577)死亡した時、 宝心妙樹との法名が付けられています。利休と妙樹との間には1男3女がおり、この長男が千家を分裂させる千道安です。 二人目は、妙樹が没した翌6年に結婚した法名宗恩です。彼女は利休が能を習った時の師匠宮王三郎三入(さんにゅう)の妻です。三入の生存中から親しかったらしく、天文22年(1553)三入が死亡するとすぐ引き取って、宗恩と三入の子供少庵の母子の面倒を見ています。 少庵が道安と激しく対立するのは後の話です。56歳の時利休は宗恩を正妻に直していますから、ずっと2人の妻がいたことになります。 いや、もう1人います。この妻は本名も法名も不明ですが、利休との間に田中宗慶はじめ5人の子が生まれています。つまり利休には 9人の実子と義理の息子がいたことになります。

宗慶は後に豊臣秀吉から、「汝の業(わざ)は日本一じゃ。」と褒められたほどの陶芸家で楽焼の達人です。宗慶の妹のお亀は、利休の義理の息子の少庵の妻になります。 宗慶の誕生は天文5年(1536)ですから、利休14歳の時の子供になり、この母が利休と最初に結婚した妻でしょう。 道安と少庵は共に茶道の宗匠となりました。ある時、父利休は道安に「お前、少庵に学んだらどうか。」と声をかけます。道安は真っ赤になって、「あんな軟弱な奴に学びとうはない。」と怒ったので利休は、"こいつ俺のほんまの子や。見所がある。いい茶人になる・・・"と目を細めたと言われます。親バカ利休です。

道安と少庵は個性も茶の精神も全く正反対でした。道安は「剛・動の茶」、少庵は「柔・整の茶」と言われます。利休の死後、道安は少庵を嫌い放浪の旅に出ます。

利休を知るためには、まず以上の知識を頭に置いてください。