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なにわ人物誌 茶聖・千利休2 有名になるも厳しい修行忘れず、わびさびの心を会得する

 堺に生まれた利休の少年時代、堺の町の様子を宣教師フロイスは次のように書いています。

 「堺の人はプライドが高い。ぜいたくを美徳としている。また国家権力も及ばぬ自治組織がある」。

 確かに堺は日本の各都市と活発に物産を取引し、外国貿易の拠点でもあり、会合衆(えごうしゅう→各商家の代表者。初めは10名)が自主的に町の政治・経済を運営し、日本で一番繁栄していた町でした。

 やはり、宣教師のルイスは「来客があると好意を示すため、草を粉末にしたもの(茶)を宝物の碗に入れて出す。さらに秘蔵の財宝を座敷に飾って見せびらかせた」「この草を飲むため特別な部屋をこしらえ、清潔・造作・秩序整然たる儀式(作法)をとり行ったのち、すすり合う。これが最高のもてなしだ」との内容を不思議そうに手紙に書いています。

 こんな町の中で魚屋(ととや)・千与兵衛の子に生まれた利休は、天文7年(1538)16才で北向道陳に入門し、本格的な茶の修業を始めます。

 道陳(1504〜62)は本姓を荒木氏、自宅が北面していたので北向と改めています。若い頃、堺に隠れた8代将軍足利義政のお伽衆(大名の世間話の相手をする文人)の一人、能阿弥(利休の祖父千阿弥の同僚)の弟子である茶人・空海(弘法大師ではない)に茶を学び、豊かな商人のくせに空海を真似てみすぼらしい庵に住み、風雅を楽しんでいた変人です。

 利休はよほど才能があったのでしょう、天文13年(1544)2月に、有名な京の茶人・松屋久政が堺を訪れたとき、道陳の勧めで久政を主客に初めて茶会を開いています。時に利休は22才ですから、これは大変な出世です。

 後に久政は「久政茶会記」という文章を書いていますが、この時の様子を「床二善幸香炉 板釣瓶(つるべ) 珠光茶碗 香炉内角アツク 腰ノ上下二指アト二スジアリ」と記しています。「善幸香炉」は村田珠光(一休の弟子。禅味を加えた点茶法の創始者)の秘蔵品で、珠光茶碗も彼が愛用した唐物(中国の品)です。この2つを並べたから久政は目をむきました。

 また、同書には振舞い(茶会の料理)について「フ汁 タウフ ツクツクシ 引物(膳にそえるもの) クラゲ ウド カヤ クリ 飯はクモタコ」と記しています。茶道に詳しい知人に尋ねますと、この時代の献立にしては斬新(アイデアが奇抜なこと)だな…とのことでした。若い利休が並外れた経済力を持っており、利休流の茶道をすでに目指していた証がわかります。

 久政を主客にしたこの茶会はたちまち評判になり、高瀬屋宗幸、木屋宗祐、若狭屋宗可、住吉屋宗全ら茶道を好んだ堺の豪商たちは、若僧利休に一目も二目を置くほど茶名はあがります。

 やがて利休は、今井宗久や津田宗及ら堺を代表する会合衆たちと対等に茶会を開き、主客に招いたり招かれたりします。天狗になりかけていた利休を、師匠の北向道陳は、甘えるな、もっと厳しい修業をせよと武野紹鴎(たけのじょうおう)に紹介したのもプラスになりました。

 紹鴎は村田珠光の弟子・宗悟に師事し、茶と禅の一致を目指した天下一の茶人です。古典や和歌も茶に必要だと勉学し、国学者以上の教養を身につけ、道陳も尊敬した人物です。

 ある日、庭の手入れをしていた下男がゴミをそのまま残して去ろうとします。紹鴎が、「掃除済んだかいな」と声をかけると、「へぇー、あとゴミほるだけですが、番頭はんが呼んでるさかい、ちょいと行って参じます」と行こうとします。その時、物陰から男が飛び出し、「はよ行ってきなはれ。ゴミは片付けておきます」と箒とちりとりを預かります。どないするやろと紹鴎が見ていると、庭木を残らず揺さぶってさらに葉を落とし、初めからやり直してきれいに浄めました。「ほほう、おもろい男や」と関心した紹鴎が、どなたかと尋ねます。この男が利休でした。

 以後、紹鴎は利休こそ珠光の茶道の後継者だと信じ、珠光の哲学「和敬清寂」の道を徹底的にたたきこみます。利休が新しいわび茶を開眼するのはこれからです。