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なにわ人物誌 茶聖・千利休3 独裁者の茶頭へ、恩師の息子を追放する

 弘治1年(1555)33歳になった利休は、恩師武野紹鴎を主君に、堺を代表する豪商茶人印今井宗久、万代屋道案らも客人に招き、精魂込めて茶会を開いています。

 そのときの様子を書いた宗久の文を分かりやすくして紹介します。

 「風呂(湯を沸かす炉)に雲竜釜(図柄が雲の中の竜)。高価」を掛け、床に牧渓(ぼっこくと読む。中国の文人)に自画像を飾り、客が手水(ちょうず 手洗い)に立ったあと軸を代える。棚には布袋(ほてい)の香合(こうごう、香を入れた器)と羽ぼうきを配した。金輪寺茶を入れ、信楽(しがらき)の水指(みずさし)、高麗(朝鮮)茶碗、面痛(水こぼし)、引切(釜のふたにのせる竹製品)の蓋置きという工夫を凝らした道具立てがあった。茶会史上に残る茶振舞いだ。

 私にはよく分かりませんが、茶道の大家宗久の言葉だけに、利休の才能が充分に理解されます。

 この半年後、紹鴎は53歳で病没していますから、おそらく最後の気力をふるいたたせて愛弟子利休の茶会に主客を務めたのでしょう。

 余談ですが、後に利休はこれほどかわいがってくれた紹鴎の息子、武野宗瓦(たけのそうが)の茶道界からの追放に一役かっています。

 宗瓦は子に恵まれなかった父宗鴎の晩年に、思いがけず生まれた子で、紹鴎が亡くなったときまだ5歳でした。それで、宗久と利休が親代わりになって育て、茶道を教え込みますが、なにしろ親の七光り、確かに茶の才能は抜群だったものの世渡りが下手、自分の思い通りにならぬと宗久で利休でも怒鳴りつけて暴れます。おまけに茶道は政治機構に組み込まれていくのですが、かんしゃくもちの彼は流れに順応出来ず、堺に進出した織田信長にひどく嫌われました。

 信長は「名器狩り」といわれたほど天下の名茶器を集め、それを手柄をたてた武将たちに恩賞として与えたことが有名です。宗久も利休も平伏して茶道具を献上しご機嫌を取り結びましたが、宗瓦はあんな粗野な男に茶の精神が分かるものかと拒みました。

 「若師匠、生命が危ない。早く差し上げなさい」宗久と利休はこう言って、父紹鴎が大切にしていた「紹鴎の茄子」「松島の茶壷」を無理に取り上げて、信長のもとに持参し宗瓦の命乞いをします。

 ところが、「紹鴎の茄子」が気に入った信長は、天正6年(1578)紹鴎の所有していた茶道具の名前を書いた手紙を宗瓦に届け、全部出せと命じます。信長が紹鴎のコレクションを知っているはずはなく、宗久や利休が信長にとりいるため、紹鴎遺品を利用したと思われます。もちろん、宗瓦は拒絶しましたから信長はかんかんになり、家屋・土地まで没収して宗瓦を堺から追放しました。逆に宗久は気に入られ、織田家の茶頭(茶の宗匠)に任じられています。

 本能寺の変では信長は死亡、天下は豊臣秀吉が握り、宗瓦は堺に戻ってきます。ところが、今度はその秀吉にも憎まれ、天正16年(1588)永久追放の処分を受け、宗瓦が命をかけて守った父紹鴎の形見「天目茶碗」「備前水こぼし」「赤金茄子盆」の8品を秀吉に取り上げられました。秀吉の茶頭は利休です。わび茶を授けられた恩師の息子を、利休はかばうどころか茶道生命を経った秀吉に加担したのです。

 私は利休を非難しているのではありませんよ。独裁者の絶対的な権力にもてあそばれた茶人たちの哀れさ、悲しさを綴ったつもりです。宗瓦は徳川家康を頼って東国に落ちますが、また後にお話します。

 さて、紹鴎が亡くなった3年後の弘治4年(1558)、利休は実休の茶会に客として招かれ、松屋久政を接待したときに用いた秘宝「珠光茶碗」を貸し、実休を夢かとばかり喜ばせました。

 実休は摂津の芥川城(城跡は高槻市)の城主で、幕府の実力者大名三好長慶の弟、三好豊前守義賢のことです。彼は風流を好み、特に茶道の世界では有名な茶湯武将でした。このときは各地の戦国大名を招いて三好一族に味方させる大事な茶会でしたから、一商人にすぎぬ利休に抱きついて感謝します。

 魚屋のせがれ利休が豊臣秀吉に接近し、政治を動かす黒幕になるきっかけは、この茶会です。