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なにわ人物誌 茶聖・千利休3 独裁者の茶頭へ、恩師の息子を追放する

 織田信長が茶道に関心があったかどうかは分かりません。ただ、天下布武(武力で統一すること)の野望を持った信長は、日本一の貿易都市堺に莫大な矢銭(戦費)と茶道具の没収を命じました。

 延暦寺まで焼討ちした乱暴な信長の手から堺が戦火を免れたのは、会合衆(自治都市堺の政治を仕切った豪商たち)の一人で茶人の今井宗久のお蔭です。

 宗久はひたすら信長のご機嫌をとって、渋る会合衆たちに矢銭を出させ、恩師武野紹鴎の息子宗瓦が秘蔵していた父の遺品の茶器類まで取り上げ信長に献納します。

 信長は宗久を茶頭(織田家の茶道師匠)に任命し、何度も茶会を開いては合戦で手柄を立てた家臣たちに茶器を褒美として与えました。家臣たちはお互いに見せびらかせて自慢します。この時代、茶道が政治と結びついて大発展するのは、こういったいきさつからです。何のことはありません。信長は自分の腹を痛めず、部下たちをこき使ったのです。

 本能寺の変で信長が自害した後、受け継いだ豊臣秀吉もこのやり方を真似ました。彼は信長の子供たちや柴田勝家はじめ、譜代の先輩家臣たちを倒し、ついでに今井宗久もクビにして千利休を茶頭に任命します。

 天正10年(1582)10月、明智光秀を滅ぼした秀吉は利休を呼び、「合戦勝利の記念じゃ。山崎にわし好みの独創的な茶室を作れ。」と命じます。これが現在京都府大山崎に残る妙喜庵の茶室「待庵」の原型です。大きなことが大好きな秀吉は、たった二畳敷きのわびしい茶室にびっくりしました。こいつ、わしにおべっかしない根性のある奴や・・・と今度は翌11年、大坂城に二つの茶室をこしらえさせます。その一つが有名な「黄金茶室」です。

 これは組立て自由でどこへでも移せる豪華絢爛たる金ピカ茶室で、釜をはじめ道具類まで黄金、緋もうせんを敷きつめた前代未聞のものです。

 もう一つは「山里丸茶屋」といって、「古木など用ひ物さびたる趣」と記された数奇屋(風流な茶室)です。つまり、黄金茶室は諸大名に秀吉の富と権威を誇示する所、山里丸茶屋は秀吉が一人で瞑想・休息する憩いの場であったわけです。この二つの茶室に秀吉は大満足。改めて利休の才能を高く評価しました。

 天正13年(1585)10月、関白になった秀吉は利休を従えて宮中に入り、日本最初の禁中(皇居)茶会を開き、利休を茶頭に自分で茶を立て、正親町天皇に振まっています。文字どおり利休は天下一の茶人として公認されたことになり、感激した利休は「一世の面目これに過ぎず候。」と書いています。時に秀吉48歳、利休は63歳でした。

 なお、利休は無位無官でしたから昇殿は許されません。それで、かつて禅を学んでいた堺の南宗寺住職古渓から、「利休居士」との居士号を与えられます。居士号があれば昇殿が可能で、それまで宗易と名乗っていた彼は、この時から利休と称するようになります。つまり、「利休」と呼ばれたのは、この後自害するまでの7年間だけでした。

 好き嫌いが信長以上に激しくなった太閤秀吉は、めちゃくちゃ利休をひいきします。いつのまにか茶頭どころか、側近の奏者(権力者に用件を取り次ぐ役)のトップになってしまいました。

 この時代、大坂城を訪れて秀吉の豪勢な暮らしぶりに目を回した九州の大名大友宗麟は、城から出るとき秀吉の弟で右腕だった豊臣秀長に、こう耳打ちされたと記しています。
「内々の儀は居士(利休)に、公儀ならば宰相(秀長)が存じ候。」

 また、石田三成も大名から関白に取り次いでほしいと頼まれた書状に、「居士の追而書
(添書きのこと)が必要じゃ。」と付箋をつけて返却したといわれます。「居士ならでは関白様に一言も申しあぐる人これ無し」とまで古書に書かれた利休は、ウラ外交にも策略を発揮、徳川家康や島津義久ら反秀吉派の大名たちを懐柔(うまく手なづけること)するのにも役立ちます。細川藤孝ら多くの大名たちが弟子入りし、前田利家、毛利輝元ら大大名まで利休に媚びる有様でした。