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なにわ人物誌 茶聖・千利休3 独裁者の茶頭へ、恩師の息子を追放する

 今や、独裁者秀吉の茶頭(茶道の師匠)どころか奏者(用件を取り次ぐ側近)のナンバーワンになった利休に、前田利家・毛利輝元ら大名の有力者も愛想笑いしてご機嫌を伺う有様です。

 天正15年(1578)秀吉は、有名な北野の大茶会を催しました。身分の上下や男女を問わず、誰でも参加してよいとの茶振る舞いです。公卿・大名から農民・町人までおびただしい群集の中で、秀吉の設けた茶会には利休がどっかと座っていました。

 つづいて聚楽第(秀吉が京都に建てた超豪邸)に一畳半茶室、名刹(伝統のある古い寺)大徳寺門前に四畳半茶室「不審庵」を設け、飛ぶ鳥をも落とす威勢をみせた利休ですが、突然秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられます。

 直接の原因は天正17年(1580)、利休が亡父千与兵衛の50回忌の供養として、大徳寺に寄進した山門「金毛閣」に自分の木造を置いたからだと言われます。金毛閣は二層の大建築で、彼は頭巾をかぶって杖をつき、草履を履いた姿を記念に設けたのですが、秀吉は「山門は天皇や摂政、関白、大臣までがくぐる。いや、わしもだ。その頭上を利休は草履で踏みつけるつもりだ。身の程をわきまえぬのぼせ上がった行状だ・・・。」と青筋立てたと伝えます。

 しかし秀吉が怒り出したのは天正19年1月からで、金毛閣ができてから1年数ヶ月も経っています。

 それではどうしてお気に入りの利休が嫌われたのでしょう。10ヶ月程前に、利休の高弟山上宋二は不届きな行いがあったとして、秀吉から斬首の刑を受けています。またその前には利休の禅の師匠大徳寺住職古渓和尚が、利休のとりなしもむなしく博多へ流されました。

茶道具に関する噂話もたくさんあります。
@ 秀吉が私蔵した生嶋虚堂筆の掛軸を利休が勝手に持ち出し、自分の茶席に掛けた。
A 秀吉が鳥井宋室の軸と交換してこいと、50両と茄子型茶入れを利休に渡した。利休は茄子型は宗室も持っていると聞き自分の手元に置き、代わりに般若の茶壷と金を宗室に渡して軸を受取った。後で知った秀吉はかんかんになった。
B 諸大名が献上した茶道具を利休は値を付けて売りさばき代金を差出した。秀吉は俺を商人にする気か・・・と怒った。
C 助左衛門が納めたルソン壷は、利休のひとことで価格が倍になり、秀吉の機嫌を損ねた。

 などですが、これらは利休と仲の悪かった木下祐佳(北政所ねねの実家の一族)や、茶の知識に乏しく利休に大恥をかかされた前田玄以(京の治安の責任者)たちの悪口が、京の人たちに伝わった怪しげなものばかりです。

 とはいえ、利休から頭ごなしに茶の指南をされた田舎大名はいっぱいいます。「クソ!あいつは堺の魚屋やないか。虎の威を借る狐めが・・・。」と不快に思った人たちの恨みや妬みが積もり重なっていったことは間違いありません。

 こんな話もあります。利休はキリシタンで秀吉の朝鮮出兵に猛反対したのが原因だ、いや、違う、船岡山にあった古墳群を強引に茶室の庭石に移したのがきっかけだ、などです。

 女だ、との説もあります。利休の娘で万代屋宗庵の妻お吟を秀吉が見初め、側室に望んだのを利休が断ったというものです。この話は今東光の名作「お吟さま」で有名ですが、あれはあくまでも小説です。

 茶道の在り方をめぐっての意見の相違もよく言われます。秀吉は贅沢、華美を好み、わび茶の質素な情緒を説法する利休が鼻につき、感情を害しました。

 「黒キニ茶タテ候コト 上サマオ嫌ヒ」と書かれた秀吉を、真っ黒な楽茶碗で接待します。確かに秀吉は真っ赤か金色が大好きです。太閤を侮辱するのかと顔を歪めたそうです。
おまけに文禄1年(1592)朝鮮に戦争をしかけた頃から秀吉の政治感覚はすっかり狂ってしまいました。