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 天正十九年(1591)、利休の最高の理解者であった豊臣秀長(秀吉の異父弟)が死亡します。彼は昔、鉄砲を買って来いと兄に頼まれ、鉄砲の生産では日本一の堺に来ますが、戦国時代とあって鉄砲は誰もがのどから手が出るほどの貴重品、おいそれとのってはくれません。そんな秀長に親切に世話をしたのが利休です。

 以来二人はかたい絆で結ばれ、利休が大出世したのには秀長の力があったればこそです。利休が一瞬のうちに秀吉から嫌われた最大の原因は、秀長の死です。

 数年前から秀吉の政権は、正室ねねや秀長派と、側室で秀頼の生母淀どの・石田三成派に分かれて争っていました。秀長死亡につけこんだ淀どの・三成派は、一気に秀長の息のかかった人たちを追い落とそうと策謀します。利休が槍玉に挙がったのはこれだと思います。

 秀長が亡くなってわずか1ヶ月後の一月十一日、1年数ヶ月も前に利休が大徳寺に寄進した壮麗な山門「金毛閣」が、利休の増長の象徴だと言いがかりをつけられました。山門の上に草履を履いて立つ利休の木像が飾られていますが、これは山門をくぐる天皇や公卿(くげ)・大名、いや太閤さまの頭まで踏みつけておる、思い上がるのもいい加減にしろ・・・というのです。びっくりした利休は、秀吉お気に入りの大名で自分の弟子でもある細川忠興や芝山堅物(けんもつ)らに頼み、必死になって弁明しますが駄目でした。堅物がもっともあてにした蒲生氏郷(うじさと)にまで、「一笑一笑(もう、あかんの意味)」と断られるありさまです。

 堺の会合衆(えごうしゅう)(堺の市政をとりしきった富豪の代表たち)仲間、住吉屋宗無や万代屋宗安も利休の手紙に顔をそむけます。昨日は極楽、今日は地獄でした。

 二月十四日、秀吉は利休に堺へ帰れと京から追放します。このとき利休が愛娘のお亀にあてた和歌が、「利休めはとかく果報の者ぞかし菅丞相になると思へば」です。菅丞相(かんじょうしょう)というのは、無実の罪で大宰府に流された菅原道真のことです。
利休のおでかけとなると、まるで砂糖にたかる蟻のように集まってきた人影はなく、淀川の渡しに見送りにきたのは、細川忠興と古田織部の2人だけでした。

 二月十六日、利休は世話になった芝山堅物に礼状を書いています。
「あなたのお骨折りが、冷たい世間だけにいっそう身にしみます。あわれな小舟で流された私は、あついお情けに、涙、また涙、涙がこみあげてきます。この気持ち、歌を詠んでさしあげたいのですが、ただ悲しいばかりでことばになりませぬ」。

 死ぬ少し前、秀吉にもっとも遠慮なくものの言えた大名前田利家(藤吉郎時代の上役)から、正室北政所(まんどころ)ねねを通じてわびをいれれば、太閤も許してくれるだろうとの知恵をつけられました。ところが利休は、男がご婦人がたに命乞いを頼むのは無念だ、それなら処刑されたほうがいいと断っています。茶聖のプライドでしょう。今井宗久といっしょに織田信長に仕えていたころ、利休は十四歳も年下の秀吉を、立ったまま「藤吉郎」と呼びすてにしました。秀吉は手をついて「はい、宗易(そうえき)(利休の古い茶人名)さま」と返事しています。天王山の合戦のころから、「筑州(羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)の略)」となり、やがて「上様」、そして「関白様」となるのですが、心のすみのどこかに「この成り上がりの猿め」といった意識が利休にあったのかも知れません。

 また、秀吉のほうも大権力者・独裁者になった今、かつての利休の横柄な面影がひょいと浮かび、卑屈だった過去の自分がいまいましくなって、茶坊主のくせに、よくもあのとき威張りやがったな・・・と憎しみがつのったとも思われます。

 二月二十五日、秀吉は金毛閣に飾られた利休の木像をひきずりおろし、なんと(もどり)橋(京都市上京区一条通り堀川)にさらして(はりつけ)の刑にしました。木像をですよ。
 たちまち世間の評判になって、知らせは堺にまで届きます。利休はいよいよ最期のときがきたと思い辞世を詠みます。
「ひっさぐる我が得具足(えぐそう)(好きな所持道具のこと)の一太刀(ひとつたち)今此時ぞ天に投げ打つ」
まさに武人の心意気です。