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 天正十九年(1591)二月二六日、堺にいた利休は秀吉の命令で、京の聚楽第(じゅらくだい)(秀吉が京に建てた前代未聞の華麗壮大な私宅)に移され、自分が設計した茶室「不審庵(ふしんあん)」で独りで朝の茶会を催します。その後、見事に腹を切りました。介錯(かいしゃく)は門人で武将の蒔田淡路守(まきたあわじのかみ)です。享年六九歳。

 当日は大雨が降り、雷鳴とどろく物凄い春の嵐が吹き荒れていました。屋敷の周りは大名上杉景勝(うえすぎかげかつ)が指揮をとる三千名の軍勢が、弓矢や槍・鉄砲まで用意して、厳重な警戒態勢をとっていたそうです。利休門下の大名たちが利休救出のため武力行使に出るとの噂が流れたからですが、ねずみ一匹出ませんでした。

 利休の首は、検使(見届け役)の安威摂津守(あいせっつのかみ)と尼子三郎左衛門が秀吉に届けます。しかし、秀吉は見向きもせず、戻橋(もどりばし)(京都市上京区一条通り堀川にある橋)にさらせと命じます。

 その有様は、橋の欄干(らんかん)に首を吊り下げ、上に金毛閣(大徳寺に利休が寄進した山門)に飾られていた利休木像がぶらさがっています。つまり、利休の首は自分の木像で踏みにじられた無惨な格好でした。

 続いて秀吉は、金毛閣の建造を許した罪だと大徳寺住職で利休の禅の師匠古渓(こけい)はじめ三名の長老を殺害しようとします。驚いたのが仏教心の厚い北政所(きたのまんどころ)ねねです。秀吉の実母大政所(おおまんどころ)なかと二人で必死になって、それだけはおやめなさいと止めました。この取りなしがなければ、名僧古渓も処刑されていたでしょう。秀吉の利休に対する憎しみは、これほどひどいものだったのです。

 利休については以上で終わりですが、その後どうなったのかしばらくお話します。
本連載@で申しましたように、千家の茶道は長男の道安(先妻妙寿との間の子)と、義理の子(後妻宗恩(そうおん)の連れ子。父は利休の能楽の師匠宮王三郎)の少庵が継ぎます。

 利休の死後、二人とも茶道具はもとより、土地・屋敷に至るまで全財産を秀吉に没収され、道安は飛騨(ひだ)(岐阜県)高山城主金森長近(かなもりながちか)に、少庵は会津若松(福島県)城主蒲生氏郷(がもううじさと)に、罪人として預けられます。

 道安と少庵は個性も茶道哲学も雲泥(うんでい)の差がありました。剛・動の茶といわれた道安は、少庵をお世辞で世渡りする軟弱者だと軽蔑し、偏屈な性格もあって一匹狼で生きていきます。

 少庵は柔・静の茶と呼ばれ、控え目で温和な性格もあり、誰からも好かれました。太っ腹の氏郷は蒲生氏の茶頭(茶道の宗匠)に任じ、藩士たちに教授させます。

 現在、会津城に保存されている茶室「麟閣(りんかく)」は、そのために設けられたもので、白虎隊(びゃっこたい)の記念館とともに多くの観光客が訪れています。

 一方、秀吉も一時の怒りにまかせて利休を処刑しましたが、やがて後悔の念が湧いてきたようです。翌二十年には大政所なかに宛てた手紙に、きのうは利休の茶道具を取り出し茶会を開いて楽しかったとか、京の奉行前田玄以(まえだげんい)に伏見城の普請(ふしん)には必ず利休好みの茶室を用意しろとか書いています。

 また、利休の門下だった諸大名の中にも、あれほど残酷な仕打ちをしなくともよかったのではないかとの反省が盛り上がったようで、古田織部(ふるたおりべ)(有名な茶人大名)が茶会を開いた時、周りが止めるのを振り切って、利休の筆の掛軸を掛けましたが、なんのおとがめもありませんでした。

 蒲生氏郷や徳川家康、前田利家らの大大名たちは、今だと考えたのか道安と少庵の赦免(しゃめん)を願い出ます。秀吉を操るには秀吉がその気になりかけた時、家来たちが懇願して頼み、お前らがそれほど言うのならそうしてやろう、へへえ、有難き幸せ・・・とやるのがコツです。

 文禄三年(1594)、利休の死後たった三年で二人は許され、秀吉は上機嫌で利休から取り上げた茶道具類を、全部少庵に与えました。面白くない道安は、少庵があなたこそ千家の嫡流(ちゃくりゅう)(本家の跡取り)です。どうぞお受け取りくださいと茶道具を差し出す少庵をにらみつけ、手ぶらでさっさと堺に帰ってしまいます。これが、道安の悲劇の二幕目でした。千家の門人たちは京の少庵についたのです。